好きこそものの上手なれ
ことわざとは全くもって上手く言ったものです。つくづく感心させられる。昔の人の洞察力や自覚は一体なにから培われたのか? ことわざ事典なんかをパラパラと覗いてみると、なんというか見事に人の俗が凝縮されている。
案外、釣りや魚にまつわるものも多い。これは魚好きとしてはとてもありがたい遺産といえる。
さて、そんな関心はさておき、この言葉、自分の好きな物事は、知らぬ間に上達していくといくということから”上手”への極意を説いています。 当たり前の事なんだけど、なぜかとても説得力を持つ言葉です。「好き」というシンプルな衝動が、どれほど重要な事かが強意されている。 同時にその困難さも遠回しにそっと訴えているような気がします。 この言葉、勿論、娯楽においてもあてはまります。言うまでもなく釣りにおいても。
釣りが上手だなあって感じる人って、やはりもの凄くピュアな”好き”という匂いが体中から滲み出ている。
また、面白いことにこの上手ってのにも色々あって様々な臭いがある。不思議と人より魚を多く釣ってしまう人や例えばキャスティングなどのテクニックに長けた人、また、ここぞという強運を持つ人などなど。人それぞれに持ち味がある。とりわけその中でも自分が強く感心させられる”上手”とは、単に魚を釣るだけじゃなくて、自身の愉しみ方を心得てる釣人達だ。言葉の真意はよくわからないけど、我流的なニュアンスでいうところの「楽しむ」じゃなく「愉しむ」を。こういう釣人達ってのは同行者をも愉しませる釣りを飾り気なく見せてくれる。
そんな目の色、目の高さで身近な周りを見渡すと、何人かの夢中な顔が頭にフラッシュする。
中でも無我夢中な一人。それがジョーカーのナカタニミチアキ名人だ。
ここに彼を名人だと断言したい。
何が?と問われれば、一言、魚遊びがと一太刀。
とにかく魚が好きな男である。とにかく面白い。
近辺では言わずと知れた釣狂ではあるものの、彼の魚遊びはその域にとどまらない。貪欲それでいて無垢。
ある日はロッドを握ってサーフェイスゲームを愉しみ、またある日は網を掴んで里川に。そして研究と疑わしき飼育に観察と彼なりの独自な感覚で魚という生き物の世界に首を突っ込み存分に愉しみ遊んでいる。また魚族の知識も豊富。知識というより経験。まつわる話なんて底なしにでてくる。それらは保存食のように誰かが密閉した糧ではなく、ほぼ体験から得た生ものだから、聞いてて愉しいのなんの。世界共通の釣り人ならではの、とっぴな逸話なんてものも当然。未知の生き物との遭遇、巨大魚の目撃などなど。胸躍らされる。
その辺の堅い学者なんかより、よっぽど自然のストレンジを体感している男だとおもう。ある意味、彼自体、水辺の生き物だ。
こんな上手に魚釣りを愉しんでいる人物が作るバスプラグとなれば目の肥えたプラッガーが見過ごす訳はない。
ジョーカーのプラグは2001年頃から、関西で販売されはじめて、徐々にそして着実に広まっていった。
すべては自然の流れ。魚を捕まえることからはじまった魚遊びのその延長にプラグ作りが存在している。それは趣味から仕事となった今でもかわらない。
こういう人物のルアーブランドが存在しているということは、ささやかな幸運だ。






TRUPHEENと書いてトラッペンと読む。全くの造語である。
ファースリリースは2007年。
イメージはソフトベイトでハードベイト特有のアクションを目指した時の動きをハードベイトで再現するというなんともややこしい発案。 そんな泳ぎをするであろう木魚を木片から釣りあげる。トラッペンに限らずだがジョーカールアーはとてもユニークな風貌をしている。フォルムしかりカラーリングしかり。一見、遊びの要素が多い様にも見える。が、そこは名人芸。それらは紛れもなくバスプラグとして機能的であって理にかなわない部分などはほとんどないのだ。あるとすればそこは元より余白であってジョーカーの余裕があらわになっている部分だ。
トラッペンはぼ三角形の断面からなるボディデザイン。水を受けるヘッド部分は腹面が上部へと反り上がっていて、アクションを加えると水から飛び出そうと働く。が、ラインアイのセッティングで下へ突っ込もうとする力も生まれる。そんな相反する力のケンカをロッドワークで感じながらプラッギングを行うととても愉しめるという。アイチューンを施せば水面直下を狙うリップレスミノー的な使い方もできる。本人曰くはスティックベイト。ジョーカー的な言い回しでは「ある程度人に馴れる。だが、神経質な一面も」。なんというか、これがジョーカーの愉しみ方だ。魚遊びの名人がクワイエットを作るとこんなことになる。 見た目通りの毒をしっかりもったプラグである。


今回制作したトラッペン、実はオリジナルとモデルが異なる。
その名もトラッペンN.D。
オリジナルモデルはノーウェイトだが今回のモデルはカウンターウェイト。素材も比重の軽い桐材を使用している。 そのことによりオリジナルモデルより水中へ刺さりにくくなった。いわばスケータータイプに近づけたモデルとなっている。ただし、勘違いしないでほしい。決して使いやすさを狙った訳ではない。むしろ逆かもしれない。確実より不確実な操作性がより押し込まれているようだ。
このジョーカー的遊び感覚はこういうことだ。
ザラスプークなどの安定した動きのプラグは、釣りをしている最中に集中力が切れても動きにムラがでず、ほぼ同じアクションが可能。それはそれで優れた事。でもこのトラッペンはそうじゃなくて、集中し一生懸命にアクションワークを行なわないと思い通りにいかないプラグ。それは無心夢中になっている時こそがやはりもっとも釣りの愉しい状態だということからの欲求。だからそんな事態を否応なく要求してくるようなプラグに仕立てあげられたという事だ。 オリジナルのトラッペンも持つその性格をさらに露にしたモデルと言える。その題材としてスケーターへと舵を取った。
その昔、詩人であり、神学者であり、また釣狂であるヘンリ・ヴァン・ダイクが「釣りの愉しみは、それが不確実だからだ」と言い残した。
まさにそこへ踏み込んでいる。釣果は当然の事だが、釣法であるプラッギングにも不確実を敢えて盛り盛り込み、魚釣りという遊びの愉しみを増幅しようとしている。なんて貪欲、でいて無垢。偶然と必然を上手く手玉にとっているというか....。そういった部分にとても心得を感じることができる。
彼が自作のプラグを語るとき、魚を語るとき、いつも感じる事がある。それはすべてを同等の存在として語る事だ。例えば自ら生み出したプラグにしても、まるでそれが個の生き物の如く、性能ではなく性格として動きや癖などを語るのだ。だから人に馴れる馴れにくいという表現が出てくる。魚についても全く同じ。まるで友人や家族のことのように語る。なんというか遊びやゲームが本来持つべきフェアな精神をおのずと感てしまう。釣り人が、プラグを利用し、魚を制する。そんな傲慢な構図が些かも感じられない。個人的にそこがとても快い。征服感なんて遊びにおいてはひと時の快楽にすぎない。すべてを同等に位置付ける精神こそ、より遊びとしての喜びを深めるような気がする。そういえば、このトラッペンNDのNDとはNO DANCEの略。このプラグが『踊らないよ』と語りかけてるらしい。それを僕らプラッガーが真剣にがむしゃらにダンスに誘い出すようにプラッギングを愉しむ。そんな意をもつネーミングなのだ。
なんとも名人らしい。水心あれば魚心。そんなことわざが釣れてきそうだ。

それにしてもどうも生臭い。嗅覚ではなく視覚による匂い。ジョーカーのルアーは鈍く輝きどこか生々しい。
それが一体なんなのかはわからないが、とりあえずその独特を放つカラーリングに触れておくことにする。
ジョーカーのルアーはすべてラッカー塗料によるもの。一口にラッカーといっても現在では様々な種類がある。ジョーカーが使うのは硝化綿ラッカーという昔ながらのラッカー塗料。古くから家具やギターなどに使用されたこの塗料が開発された年代(1920年代)を考えると古いアメリカの木製ルアーにも使われていたとも考えられる。あのビンテージプラグとジョーカープラグ双方が放つ無骨さには、どこか共通するものが感じられるのでこの推測はあながち外れてはいないとそう思う。しかし、ジョーカー本人もいうが、ラッカーは水に浸けて使う道具であるルアーには決して適した塗料ではない。木の収縮や湿度でひび割れや劣化がしやすく打撃にも弱いというデメリットを持っている。使い手には、理解が必要となる。耐久性などを考えるともっと適した塗料はこの時代には当然多々存在する。本人もこれまで色々な塗料を試したようだ。それでも最終的に選んだのがラッカー。しかも硝化綿ラッカー。理由は簡単。その風合い。ソリッド感のある鈍い光沢や色見が自分の作るプラグには絶対不可欠だという。それともう一つ。高級なカスタムギターやビンテージギターには必ずといっていいほどこの硝化綿ラッカーが使われていて、その理由が音の振動を殺しにくいからとされているらしい。ルアーというものもある意味、鳴りもの。フックやパーツ類の干渉による音が他の塗料よりもきっと高い音域を奏でるはずとこのラッカーの特性にも着目しているようだ。
やはり貪欲でいて無垢。
しかしながら、このラッカーの話とあのプラグの生々しさとはやはり関係はないだろう。だが、ラッカーについて色々調べていると思わぬ落とし穴にハマり自分の中でますますジョーカープラグの生々しさが増すという結果になってしまった。それはこういうことだ。このラッカー=Lacquerという名称の由来はその昔、製造にラック虫という昆虫の分泌物が用いられていたからだという。勿論現在の一般的な硝化綿ラッカーはそんな虫の手助けなんて受けていない。が、その由来が妙に感覚に触れ、どうしたものか、ジョーカープラグの生々しさが虫の分泌物と同質のように思えてきたのだ。これはきっと、正体不明の生々しさに対する理解の空白を埋める為の苦し紛れだと思われる。ただ、こういう錯覚は大歓迎。ちょっと行き過ぎなところもあるが釣り具に対する妙味は確実に増す。
まあ、くどくど言ったところで釣り具なんて、本来血腥くて生々しいもの。そんな基本に戻れば、この生々しさは当然であっていちいち検する必要などない。この迂遠、裏を返せばそんな風体のプラグが現在のバスシーンにめっきり珍しくなったゆえのこと。よってもう一度裏返せば、そこにジョーカープラグが如何に釣り道具らしいかが浮き彫りとなる。

しかし、普遍。この釣りの興奮は究極。

手の平で世界の情報が網羅できることが当たり前となっってしまったこの世の中。
その代償に”驚き”の存在が確実に薄れていっている。 心臓が飛び出しそうな瞬間なんて滅多なものだ。
しかし、僕らはその存在をよく知っている。その術を熟知している。
液晶画面ではなく水面にそれはある。

TRUPHEEN NO DANCE。がむしゃらにプラグを誘い、バスを誘いだす。
この木製水面プラグの愉しみは貪欲であり無垢であって昆虫の分泌物のように凝縮されている。

木に縁りて魚を求む 、否。

曖昧に、時には、ことわざをも覆す。


...........................................................................................................................................................................................................................................................................rotton



STUDY TO BE QUIET 07

JOKER
TRUPHEEN N.D

全6色
on fish plate
-- no package --




Shall We Dance?